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私の一言   MY SHORT TALK
 
 物部康雄   YASUO MONOBE  
  和を以て貴しとせず


73.スポーツ賭博

2024/3/22




72.公然の秘密
(幻の日本一のヒバ林)


2024/1/12




71.公職選挙法違反

2023/1/25




70.悪い奴ほどよく眠る

2021/5/27




69.和を以て貴しとせず

2021/3/16



68.神々の葛藤

2021/3/1




67.パチンコ店が宗教施設に

2021/2/12




66.日米の裁判の差

2021/1/22




65.ネットでの中傷

2020/10/23




64.素人と専門家

2020/7/29




63.税金の垂れ流し

2018/2/26




62.区分所有建物の
   固定資産税

2017/7/28




61.わけの分からぬ家族信託

2017/3/8




60.呆れるしかない広島訪問

2016/5/31




59.さらば民主党

2016/3/28




58.越後湯沢の惨状

2016/3/7




57.権威を疑う

2016/1/25




56.年間200億円

2015/12/15




55.小仏トンネル

2015/8/6




54.18歳で選挙権

2015/4/20










聖徳太子が実在かどうかははっきりしないようだが、太子の手になるとされる17条の憲法の最初に、「和を以て貴しとなす」との有名な言葉あり、わが国における第一級の社会規範として、尊ばれている。ところが、それでは困るところがある、というのが本日のテーマとなる。

裁判所というところは、国の機関ではあるが、普通の役所とは違う。堅苦しく言えば、三権分立という国の在り方に基づき、国会、内閣(行政)と並び、独立して司法権をつかさどるところであり、人々が不平・不満につき最後の手段として訴えを起こす場所である。いうなれば、国家に対峙して、市民は入り口では選挙権を、出口にこの裁判を受ける権利を有しているといえる。ただ、この権力分散の話は本日のテーマではなく、個々の裁判官のありようについての話となる。

昭和の時代に植木等さんが「ゴマすり行進曲」という歌を明るく唄っていた。このゴマすりに似た言葉に忖度があるが、今やこの「忖度」の方が日常的な語になってしまっている。というより、最近はゴマすりという言葉を聞くことが無くなってしまったようである。

「ゴマすり」には上司をおだてて意のままに操るという痛快さがあるが、忖度には、そうした愉快さがなく、上司の意向にへつらうといったマイナスイメージしかない。そもそも「忖度」という言葉があるのは知ってはいたが、それが漢字でどのように書くのかは知らなかった、というのが大方の人のはずである。私もそうだった。植木さんのゴマすりが消えてなくなり、今や忖度ばかりで暗いムードが社会を覆ってきている。

実は、本来は、唯我独尊で、自身の良心にのみ従い、憲法・法律以外には誰にも何にも縛られずに判決を書くべき裁判官が、近ごろいろいろと忖度をし、和を以て貴しとして横並びの判決を書き、単なる法律職公務員になり始めている。多くの法曹関係者がこのことを憂いているはずなのだが、ほとんど声にならない。何か、忖度をしているのであろうか?

そのことが最も頻繁に表れるのが民事の事実認定であり、生の証人の発言の信用性という裁判の核心となるべきものがさっぱり重きをなさず、ほぼ全てが書かれたもので判断される傾向にある。これでは、白を切った者の勝ちであり、裁判とは言えない。上級審では紙しか見ないので、このように核心から逃げてしまっているわけである。

しかし、ことは事実認定にとどまらない。例えば、ある法律解釈問題につき最高裁判所の先例があるとすると、近ごろの裁判官は、ほとんどが、それに従って判決を書くのが自身の務めと勘違いをしている。これでは、いつまでたっても悪しき慣例(先例)を打破できないこととなる。本来は、下級審の裁判官ほど、上級審の判決を吟味し、よいものは取り入れ、悪いものは正すという姿勢がなければいけないのであるが、そうした姿勢が、まず、見えない。地裁の裁判官は上席裁判官や高裁の意向を忖度し、高裁の裁判官は最高裁の顔色を見て、皆同じような判決をするわけである。時に、上級審が下級審の裁判官を慮ったりもする。和を以て貴しとし過ぎなのである。昨今はやりの言葉で言えば、同調圧力ということになるのであろうか。 少なくとも、裁判官は、誰からの影響も受けないでいてもらわなければ、一般市民の最後の駆け込み寺という大切な役割を果たせなくなる。村社会の良き一員では、困るのである。忖度というのは、保身と紙一重であり、べらんめえ口調に言えば、「身分保障をされている裁判官があれこれ忖度をしたら、もう御仕舞いよう。」というところであろう。

さて、裁判というのは、理想的には、誰にも何にも縛られない一人の裁判官という個人を信頼して成り立っている。しかし、聖徳太子以来1400年にわたり、和を以て貴しとなす、と教えられてきた日本人にとって、特定の個人に全権をゆだねるという発想は、なかなかむつかしい。また、それを引き受ける方も、気遅れを感じるであろう。私は、裁判という制度を欧米のような感覚で取り入れるのはそもそも我が国には無理ではないのか、と思い始めている。ことは、社会の在り方、国と個人の関係、といった根本的な事柄に関わることであり、その根は深い。ことによると本来の陪審員制度の導入がその壁を破るのかもしれないのだが、それは先の見えない話であろう。

ただし、こうした状況を生んだのは我々一般人やマスコミの責任でもある。裁判官は高潔な人格者のはずとして、マスコミが取り上げるような一部の社会的関心を引く事件を除けば訴訟当事者以外にはその訴訟指揮ぶりにも判決内容にも誰も何の関心も持たず、「裁判所は公正な判断をするところ」と漠然と肯定して済ませているのが現実である。これでは、唯一関心を見せる上級審の顔色を窺いたくなるのも、致し方ないといえる。頑張って、自分の出世にマイナスと分かっていても、言うなれば体を張ってまで自らが信じる判決を書いても、誰からも何の反応もないのでは、確かにやっていられないであろう。そうすると、悪いのは裁判官や裁判所を無視したままの我々自身ということなのかもしれない。





























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